なかなか複雑!大凧祭りに見る座間と相模原の関係

今回は、大凧祭りと座間近隣地域の関係についてのお話。


昨今、全国的にも割と有名になってきた座間と相模原で毎年5月に開催されている「大凧祭り」。元々は江戸時代に男児の初節句を祝う為の祝い凧をあげたのが原点で、その後各集落ごとに競い合うように大きな凧をあげるようになり、現在の大凧へと至っている。しかし、実は、この大凧祭りには少し奇妙なところがある。


その「奇妙なところ」が顕著に表れるのは、県道51号線こと行幸道路と、県道42号線こと座間大通りが交差する座間上宿交差点の付近である。

座間公園側から上宿交差点を見下ろしたとき、一方には「座間市大凧まつり会場」と書かれた看板が掲出されている。しかし、その反対側には「相模の大凧まつり」と微妙に異なった内容が書かれた看板が立っている。これはなぜかというと、座間市側の大凧祭りと相模原市側の大凧祭りは、根本的に「別のお祭り」として開催されている為である。

こんな感じ……(笑

これは行政区分が異なる、保存会が違う、会場が別、などなど諸々の事情がある故であろうが、しかし、私が祖父や近所の人から聞き及んだ話によると、どうにもそこには座間と相模原の複雑な事情があるようだ。

座間市座間一丁目の上宿交差点から県道を宗仲寺というお寺の方へ北上すると、間もなく座間市と相模原市の堺にぶつかる。この相模原市側に入ったあたりから県道が鳩川と交差するあたりまでが「新戸地区」、またそこからさらに北上して相模線と交差するあたりまでが「磯部地区」、とそれぞれ呼ばれる地域がある。
これらの地区はもともとの集落の単位で、新戸村、磯部村とそれぞれ独立した自治体であったが、1889年(明治22年)に合併し、新たに「新磯村」を形成する。また、この新磯という地名は現在でも「新磯野」や「新磯駐在所」などの名称として利用されている。

座間市座間地域の北側が新戸・磯部(地理院地図)

こうして当時の座間村のお隣には新磯村ができたわけであるが、その後、1937年に当時の陸軍士官学校が座間・新磯周辺へ移転することとなったころ、当時の神奈川県主導で、町制施行の為、座間村と新磯村間での合併も促す動きがあった。当初座間も新磯も上級官庁の県の主導ということもあり、前向きな意向を示していたが、ある問題がきっかけとなり結果的に不調に終わる。なお、当時の県は今の県とは微妙に異なり、官選の知事が置かれたいわゆる国の出先機関であり、各市町村を指導統括する絶対的な「親分」のような存在であった。そんな県主導で進んでいた話がポシャるというのは、なかなか稀な事態である。

その不調の原因とは「自治体の名称」である。新磯村はその名称自体が「新戸」と「磯部」の合成語であることからもわかるように「新たな名称」での合併を望んでいた。しかし一方の座間村は座間の地名にこだわり、「座間町」の名称を使うことを求めた。というのも、これはおそらく当時何気に県下有数の米の収穫量を誇ったりしていた座間という地域の人の意地であり、曲げられない矜持でもあったのだろう。

また、新磯村からしても「新磯は座間ではない」という意識があったようである。なお、調整の不調により結果的には、陸軍士官学校の移転に間に合わせる為、座間は単独で町制を施行し座間町となった。

この合併不調の一件から推察できるのは、隣接していても座間と新戸磯部はそれぞれ違う集落・部落であるという意識が根底にある、ということである。実際、現在の大凧祭りも、座間側の主体は旧座間村の地域であり、相模原側も新戸、磯部、勝坂などの集落の凧がそれぞれ揚げられている点からも分かるとおり、主体は旧新磯村の地域なのである。

なお、この集落意識の強さは神奈川県下全体においても同様であり、神奈川県は県民性という同一意識が他県に比べて薄く、各市町村や地区ごとでその性質や習慣が若干異なり、それぞれローカルルールを持っていたりする。だが、決して各地域間の交流がなかったわけではなく、座間の諸家についても海老名や愛川、相模原の田名や番田、新戸・磯部などその他諸々との家系のつながり(嫁・婿を貰ったり出したり)や、養蚕などの農業指導交流など、歴史的にかなり長く深い関わりを互いに持っている。

しかし、そんな深い関わりを持っているが故に、集落間での「摩擦」も時折発生している。その最も重い理由というのは、つまり「田んぼの水」である。
我が国では長らく米を主食とし、水稲作を農業の主流としてきた。それゆえに常について回るのが「水」の問題である。海老名、座間、新戸・磯部などでも、田畑が隣接する地域どうしでは、どうしても水をめぐる問題が絶えなかった。むしろ座間内でも座間と入谷間でひどい争いがあったが、これについては後日別の機会に話したいと思う。このことについては祖父も「水は殺し合いになる」と語っていた。要するに米にとって水は「命」であり、米が今よりも重要な食糧であった昔は、米は人々の「命そのもの」であり、米の水取りは文字通り「死活問題」だったのである。

また、座間と相模原間においては、もうひとつ特別な事情がある。こちらも詳しい話は後日に譲りたいと思うが、相模原という地域が成立したのは、1941年4月29日のことであり、その背景には戦前の軍部主導で進められた「軍都相模原計画」であった。相模原はもともと8つの自治体が軍部の主導で合併したことによって成立したもので、この合併に際して座間も一時相模原の一部になった期間があった。しかし戦後、座間は地元住民の強い要望により相模原から離反して、新たに座間町として再出発している。そのせいか、可否はともかく、座間はどこか相模原に対して独立意識が強いようである。

また、前述したように、相模原はもともと存在していた歴史的な地域や集落の名称ではなく、様々な地域と地区の集合体としての比較的新しい名称である。ゆえに、そもそも当時の国(軍部)の施策だったからというのが最も大きな理由であろうが、先に叙述した座間と新磯の合併不成立時の時とは地合いが異なる為、新戸と磯部の両地区は相模原の一部となり得、現在に至っているのかもしれない。また、座間が相模原の一部としての道を選ばなかった理由としては、やはり「座間」という名称への譲れないこだわりがあったようである。

このように隣接し合う地域には昔からの深い交流と同時に、確執と今の地域区分へ至るまでの様々な紆余曲折と理由が存在している。それらの歴史が現代においても尾を引いていることは否定できない。なぜなら、現在の我々の生活を形作っているのは、歴史そのものだからである。

普通に考えれば、大凧祭りも共同開催にした方がいいのではないかと思ってしまうかもしれないが、お金や施設の問題であったり、あくまでも憶測の域ではあるが、広域自治体としての相模原としても相模原から分離した座間としても、それぞれの自治体としての立場や地域としての独立意識故に、あえて別々に大凧祭りを行っているのかもしれない。あるいは自治体も違うし、別々にやった方が「色々と」都合が良いのかもしれない。ひとつだけ確かなのは、座間と相模原(新戸磯部)は互いに関係しつつも、それぞれ別の歴史を持っているということである。

ちなみに、相模原には相模の大凧センターがある……。

TVK(テレビ神奈川)にて放送されている「アッパレ!神奈川大行進」という番組で、以前座間を取り上げた際、通りかかりのおじさんに「座間といえば、相模の大凧」とデビット伊藤氏が話しかけたのに対して、「相模じゃない座間の大凧だ」とおじさんが主張していたことがあった。その歴史的な順位や賛否は定かではないが、私としてはおじさんの意見にも一理あるものと考える。

なので、よそから見れば大変些細なことであり糞みたいにどうでもいいのは百も承知しているが、この座間と新戸磯部の歴史を尊重するのであれば、ぜひ座間に来たら「相模の大凧」ではなく「座間の大凧」と呼んでほしい。

以上、今回はちょっと長くなりましたが、大凧祭りに見る座間・相模原に関わるお話でした。次回は軍都相模原、もしくは座間と入谷の関係、あるいはちょっと変わった座間周辺の年越しそば、あたりについて書きたいと思います(笑

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